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バトル・ロワイアルIIによせて

バックナンバー 3月〜4月


テロは絶対悪なのか?
「次回のコラムではテロリズムについて考えてみたい。」等と書いてしまったわけだが、実は逃げ出してしまおうかと思っていた。
テロは極めて政治的な問題を含んでいる上に、それが答えの無い袋路地であるからでこそ表出するところであるからだ。(また、個人的な問題も含んでいるので・・)
だからパスさせてもらおうと思っていたのだが・・・前田愛ファンサイト共用掲示板において深作欣二監督の『「テロは絶対悪」に監督は反発し、「テロという形でしか声を発せられない弱い人々がいる。暴力は彼らのためにあり、否定できない。」』という発言に対する反発の声があり、逃げにくくなってしまった。(汗っ


まず、問題の深作欣二監督の発言の載った記事を入手できたので引用させていただこう。

『日本経済新聞 2003年3月16日 -創作探訪-「最後の宿題」答えどこに?』より引用。

深作欣二監督の言っている”テロ”は、日本で起こる一部の新興宗教によるサリンテロ等とは性質が異なることは把握しておこう。ああいった日本でのテロは、平和に甘えて駄々をこねているにすぎない。
問われているテロは(9.11に拘っていることを考え合わせても)、アフガン問題、パレスチナ解放問題等のような
”平和の無い世界”から来たテロである。
ここで政治的な歴史を細かく書きだすことは避けるが・・・知らない方のために少しだけ。

アフガニスタンはソ連侵攻時に、アメリカがソ連対抗とイスラム懐柔の目的で近代兵器を供与され(ビンラディンを育てたのは皮肉にもアメリカである)、ある意味”アメリカの利益の為に代理で戦わされた”国である。結果、ソ連は退いたが、アフガニスタンは今もなお戦火の傷で廃墟の国であり、正式な政府さえ無い。

パレスチナの人々はイスラエルによって国を追われ、行き着いた場所も占拠され、不当な弾圧と苦渋を強いられてきた人々だ。
(他方、ガザを占拠する側であるイスラエルのユダヤ人も、遥か昔に国を追われ、世界中で様々な弾圧と差別を延々と受け続けてきた受難の民族であることもやるかたない事実だ。目を覆うばかりの悲惨な迫害を描いた「戦場のピアニスト」も、その歴史の一ページにしかすぎない。)
イスラエルは強力であり、それを支えているのは自国の利益のためにコロコロとイスラム諸国への態度を変えて恥じない超大国アメリカである。国を追われ、人権を剥奪され、貧困と弾圧に喘ぐ日々。

アフガニスタンの、そしてパレルチナの大人は自らの子供達の顔を見たときに、何を残してやれると言えるのか?この子供達に何をしてやれるというのか?
子供達には生まれながらにして、守るべき平和も希望も元々与えられていない。その未来は?
大きな
無力感と絶望に生きる日々。そのような時に人間の心の中を、巨大な憎悪と暴力への欲求が溢れることを、理性を持てと紋切り型に否定できるのだろうか?少なくとも欣二監督は否定できなかったのだと思う。

テロは憎むべきものだ。
直接関係の無い、平和に暮らしている罪も無い一般市民を脅かし、平和と命を奪う権利は誰にも無い。テロは卑劣で卑怯な行為である!・・・・だが。平和を持てない者の目から見れば、平和を享受している事はそれだけで罪に見えるのかもしれない。そして、
彼等は命の価値の低い国からやってくる。(断言しよう。命の価値は時代と状況によって異なるのである。無論、そうあってはならない。だが、「あるべきこと」と「現にこうある」ことは違う。暗澹とする事実だが。残念である。)

テロリズム・・・それはけして許されるものではない。
良識のある誰もがそう答えるだろう。誰もがテロの無い世界を望むだろう。しかし、
テロを無くす方法が「テロを行う者や、それを擁護する者を抹殺してしまえばいい」という考えならば疑問が残る。
「テロが起こらなくていい世界。テロをに走らなくてもよい世界」の構築が必要なのではないのか?
欣二監督のアメリカへの憤りは、そうした主張から発せられるのだと私は考える。
少なくとも・・・アメリカがテロを”絶対悪”と呼ぶのは抵抗を禁じえないし、
「戦争」という名の「正当化したテロリズム」によって「正義」の名の下に圧倒してゆく「強者の理論」には・・・怒りを感じる。

テロは不毛である。
そこから新しい何かが生まれることは無い。無駄に人を殺し、無駄に死んでゆくテロリスト達。
その方法論では強者は変わらない。
私はバトル・ロワイアルIIでは、それをも描いて欲しい。深作健太監督が「どうして人を殺してはいけないのかを10代に伝えたい」と語ったことに期待する。
しかしまた、愛ちゃん演ずるキタノ・シオリをはじめとする体制によってテロリストと戦わされる側の「砦中学校 3年B組」の子供達も、
戦うべき本当の相手は誰なのか?ということに気付いて欲しい。
テロを生む本当の悪は誰か。闘いを強制させる本当の敵はどこにいるのか。頼みます。>健太監督

さて、冒頭に少し触れたように、私は個人的な問題を抱えている。
告白すれば、私も強者によって正義と幸福を押し付けられ、それに抗ったことにより破滅させられた者である。怒りと憎しみと報復への衝動に悩まされ続けてきたのだ。だからテロリストの気持ちが解る等と甘えたことは言わないが、この文章を書くにあたって、強い葛藤に陥ったことは告白しておきたい。


羊飼いになるか羊になるか狼になるか
 各スポーツ誌にロケの様子と健太監督のコメントが載ったが、特にデイリー「反米描く」の大見出しが目をひいた。「圧倒的軍事力を持った国が攻撃すればそれは虐殺」あまりにタイミングがいいので驚いてしまった。
このコラムを書く前日、TVのニュース番組でイラク情勢についての米国上層部の会談の内容を聞いた私は、一言「悪の枢軸はアメリカじゃないか」とこぼしたばかりだったのだ。

国連の私物化。国連にそって米国が動くのではなく、米国の意向にそって国連が動くべきだと。彼らの主張はほとんど日本が間違った道を歩んでいた頃の(今が間違っていないということではない)大東亜共栄圏思想の全世界版ではないのか。
「私は優秀なのだから、他の劣った者達は私の下で私の考え通りに動いていれば幸せになれるのだ。それに逆らう少数は圧倒的力で叩き潰す。それが優秀な私に与えられた義務であり権利なのだ。」
どこにでもこういう輩は現れる。かつての日本がそうであったし、もっと身近なところにも、ある程度の人と利害が集まる場所には、ともすれば勘違い野郎が現れて「哀れな子羊を導く羊飼い」になろうとする。
その手には鞭が握られているかもしれない。

今の世界、米国だけがそのような考えを持つ者だとは言わない。他にも自分こそ羊飼いの地位にふさわしいと考える者はいるだろう。しかし、実際には米国の力はあまりにも強大であり、その振りあげる鞭は肉を裂き骨を断つ。正義の名の元に。

羊飼いの地位争いに敗れた日本は、今はさしずめ米国の忠実な牧童犬といったところか。
しかしどうやら、その犬の群には、牙を失わなかった狼が混じっていたようだ。
(まるで反米感情丸出しのような上の文ではあるが、私はアメリカの文化に好きなものも多いし、おおいに影響されてきたし、学ぶところも少なくないと思っている。まして米国民の個々人になんの恨みも無い。)

さて、都庁崩壊シーンが貿易センタービルのテロを意識していることから、バトル・ロワイアルIIはテロを容認しているのではないか?と受け取れる。しかし、スポニチでは「どうして人を殺してはいけないのかを10代に伝えたい」ともコメントがある。
バトル・ロワイアルIIのテーマの一つに「テロ」があげられていることから、どうしてもテロという問題を避けては通れない。次回のコラムではテロリズムについて考えてみたい。

疑え!止まるな!
 ところで・・・バトル・ロワイアルの背景になっている国はどこなのか?
原作では「大東亜共和国」となってるようだ。その歴史に太平洋戦争に似た事変はあったが、アメリカには負けず、現在は「準鎖国制」だとか。つまり、正確には「日本じゃない」わけで。でもまぁ、明らかに現在の日本と同じ描写があり、分かりやすく考えれば「第二次大戦で日本が負けなかったらこうなってたかも」という設定だろう。つまり、SF的言い方で言えば現実の日本のパラレルワールドであり、平行世界。近未来ものだと思っている人が多いようだが、むしろこれは「もしも〜だったら、こういう世界になってた」という設定。

絶対の価値基準に支配されていた世界が、突然の分岐点でまったく転換してしまう。
ニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」で言えば「神は死んだ」という世界の大反転にあたる。これは現実の歴史で繰り返されてきたことであり、日本の敗戦もまたそう。
戦時中は軍国少年だったという深作監督が、艦砲射撃で大勢の友人を一瞬にして無くし、信じていた戦争の大儀に疑問を感じた直後に日本は敗戦する。すると、新聞記事から学校の教師の教えまで、まるで手のひらを返したように180度変わった世界観が訪れた。大人が・・・偉い人が・・・社会が・・・大東亜共栄圏思想を正義の大儀と教えていたから、貧困と死の恐怖を耐え、愛する人を失う苦しみを受け入れ(難かったから疑問を感じたのでしょうが)てきたのに・・・敗戦と共にすべては嘘だった間違っていたと教えられる。まさにパラレルワールドの分岐点。
大人は信じられない。権力は信じられない。
誰もが信じているこの世界の価値が信じられない。

それが深作少年の心に打ち込まれた心の楔だ。
その楔は深作少年が72歳で無くなられるまで、あの終戦の日に彼の心を留めてきたのだ。
(仁義無き戦いのラストシーンで原爆ドームが映されるのは意味があってのこと。)

前作バトル・ロワイアルで教師キタノが言う。
「生きる価値のある、りっぱな大人になりましょう。」
生きる価値とは?りっぱな大人とは?

そしてバトル・ロワイアルIIでは、何が語られるのか。
戦争を知らない若者達にパラレルワールドによって戦争を突きつけ、体制側の思惑で戦わされるバトル・ロワイアルの世界を見せ付けることによって、「疑問を持て」「疑え」そう監督は今の若者達に伝えたかったのではないか。

与えられた平和(?)と価値を疑うことなく享受する現代の子供達。しかしそれは危うい幻想にすぎない。
ひっくりかえせ!ヘルタースケルター!


★追記
当初の上の文章には「サイバーパンク」「スチームパンク」という表現が使われていましたが、不正確な表現であるとのご指摘をいただき、本文から削除させていただきました。私としてはサイバーパンクとスチームパンクになぞらえることで文章に面白みを加えたつもりでしたが、SF文化を大切にしておられる方々に配慮の欠ける手前勝手な拡大解釈であったと反省しております。m(_ _)m
考え続けること
  深作組公式サイト「Midnight Workers 深夜作業組」で紹介されているバトル・ロワイアルIIオーディション。受験者が朗読させられたテキストを読んでみる。
「アフガニスタンの10歳の少年が書いたこんな文章があります・・・」で始まるこのテキストは、武器の名前は知っているが”平和”の意味を知らないという少年の文だ。
生まれてこのかた”平和”という状況を体験したことがない少年が存在する。この事実は衝撃である。その平和を知らない少年が素朴に語る平和の意味は心に痛い。オーディションを受けたのは無論、愛ちゃんをはじめ戦争を知らない若者達である。そしてオーディションを指揮するのは戦争と平和の狭間を中学生時代に体験した深作欣二監督だ。
オーディションでこのテキストを受験者に読ませた意図を考えることが、バトル・ロワイアルIIで監督が死を賭して描こうとしていたテーマの輪郭を見せてくれるように思える。60年前に友達の遺体の破片を拾いながら迎えた終戦の夏の日に、少年深作欣二の胸に残った疑問。監督は生涯それを追い続けてきたのではないか。

バトル・ロワイアルを暴力映画と斬って捨てることは簡単だ。
しかしそれは、考え続けてきた人間と、思考停止している人間との差を露呈するだろう。


受け継がれてゆくエネルギー
 Webを散策すると、「監督の最期がバトルロワイアル2になって可哀想。別な作品を撮りたかっただろに。」みたいな意見も目にする。
それはちがう。この記事を読んでみてください。監督は最期を予期しているからこそバトル・ロワイアルIIを撮りたかったのだ。
BRII特番Vol.1を観ても、若い未熟な役者達に、怒鳴り、一から演技の基本を叩き込んでゆく様は、確実に深作監督の生命を削っていったと思われる。熟練した役者をつかって、今まで通りの作品を創っていれば、どんなに楽だったろうに。しかし、監督は自らの命を削り、若者達と困難で多難なテーマの作品に挑んだ。
多くのアーティストが晩年にはセルフパロディとも言える安易な道を選んでゆくのに対し、深作監督は最期まで闘争を続けたのだ。
「たとえこの闘いで生涯を終えようとも、私には一片の悔いも無い」by深作欣二

若い役者達も、深作監督とのぶつかりあいに、苦闘を強いられた。そうして短い間に多くを学んだと思う。
「監督お疲れ様でした。今から戦争に行ってきます。」by前田愛
熱きエネルギーは、次の世代へと確実に受け継がれていくと思う。

愛ちゃんの闘争を観せていただきます。

哀しい闘い
 下のコラムで「抑圧された子供達が権力者へ闘いを挑む。」としているが、「ぴあ」の記事によると、どうも今回も「子供対子供」になるようだ。「七原の組織した反BR法ゲリラ集団「ワイルドセブン」と中学生との孤島での戦い」という図式だろうか。だとすると下で述べたようなえてして暴力は抑圧する権力者側に向かわず、なぜか抑圧される側同士で行われることが多い。」を再現することになる。「仁義無き戦い」で運命に翻弄されつつ闘いの中に生きるしかなかった漢達の悲哀を描いた深作監督だが、バトロワIIでも哀しい闘いを描こうとしたのだろうか。
私としては、権力者側に一矢を報いて欲しいところなのだが・・・本当の戦争を体験した深作監督から見れば、それは甘い感慨に見えるのかもしれない。真実に迫るのならば、あえて絶望も描かなければならないということか。

さて、「ぴあ」の出演者欄では主演の藤原君の隣に名前を連ねた愛ちゃんだが・・・はたして愛ちゃんはどちらの側にいるのだろう?ゲリラ側?中学生側?心情的にはゲリラ側にいてほしいのだが、映画の役としては七原を追う中学生側で強力な敵役として現れたら面白い。「私は七原を許さない!」(はて?どっかで聞いたような?笑)
しかしその場合も、心理的葛藤をぜひ組み込んでいただきたいものだ。

批判されるバトル・ロワイアル
 前作の「バトル・ロワイアル」は様々な方面から是否が問われ、批判も多かった。
代表的なものは「中学生が殺しあうなんて不愉快だ」というもの。私も不快に思った一人だが・・・では、大人同士ならば良いのか?子供だからだめ?世界には今この時もローティーンが銃を持たされ戦場で死んでゆく国の現実があるが、ではそれについての意見は持っているのか?遠い国の現実は見ないですむから良くて、自分の国の映画は身近だからダメなのか。それはつまり自分に都合の良いことだけ見ていたいってこと?っと、自分に問う。
つまりは深作監督がこの原作を自作に選んだ意図とは、「見たくないモノを、あえて見よ!」ということなのではないだろうか。
そして世界と自分自身の中にある”見たくないモノ”を直視し、その上で
「生きろ」と。

 もう一つ、印象的な批判があった。
「なぜ子供達同士で戦わせるのか。権力側と戦うべきではないのか。」これは私もそう思った。(もっとも、現実の世界でも、えてして暴力は抑圧する権力者側に向かわず、なぜか抑圧される側同士で行われることが多い。)
新作の「バトル・ロワイアルII」は、この批判への回答であるとも思える。
抑圧された子供達が権力者へ闘いを挑む。
「すべての大人に宣戦布告」
しかしそれはただの勧善懲悪に終わらないだろう。それは前作の「キタノ」に見る様に、大人もまた抑圧されているのである。
「キタノの娘」である前田愛の役。父を嫌い憎む少女。しかしその父の死に彼女は何を見出すのか。彼女にとって本当の敵は誰なのか。「キタノの娘/前田愛」は、この物語のキーワードになるような気がしてならない。