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第二夜

私はかつて進化論(特に遺伝子を中心にした)に大変傾倒していた時期がありました。数千円もする専門書をいく冊も買い込んで、意味が理解でき、自分なりの解釈を出来るようになるまでくり返し読んだりしてもいました。
当時の私はもっぱら秋葉原へ寄った帰りに書泉ブックタワーの生物の書棚の前に立っては、次に読む文献を物色するのが習慣でした。ごひいきのドーキンスや、それに対抗するラマルキズムを擁護する書物等を交互に選んだり。
その時、いつも気になっていたのは”木村資生”という学者の「遺伝子の中立説」という書籍です。木村資生という人はその中立説により世界的に注目を浴びている学者でした。そのおおまかな概要は他の書物で解ってはいたので、「いつかは読んでおかないとなぁ。」とは思いつつ、いつも背表紙をながめるだけで、実際に手にとったことはなかったのです。

ある日、いつものように生物の書棚に立った私は、その日にかぎってなぜか木村資生の書籍を手に取っていました。しばらく内容を立ち読みしたあと、結局は買わずに書店を後にしたのですが・・・。
翌日の朝刊をなにげなくめくって、私は驚愕しました。木村資生が前日に亡くなったと書いてあるではありませんか。むろん、私が彼の書籍を初めて手に取った日のことです。
いつもはけして手に取ることは無かった木村資生の本を初めて手に取ったその日に、彼は亡くなっていたのです。
私は何か彼に導かれたようなおかしな気持ちになったものです。



仮説

こういう話は、もっぱら自分(当事者)と事象の関係だけに注目していることが多いのです。この場合も、少し視線を遠ざけて客観的に見てみると事情も変わってきます。
まず、木村資生の本は毎日のように日本中(いや、彼ほどになると世界中)の書店で、誰かに手に取られているのは間違いありません。その中には、その日が初めてだったという人も少なからずいるでしょう。つまり、毎日どこかで誰かが”初めて手に取って”いたのです。無論、木村資生が亡くなったその日も例外では無いでしょう。
”その日に初めて”本を手に取っていたのは、けして私だけではないですし、その前の日も、その後日も、やはりそうです。”亡くなった日”に”私が”という部分にばかり注目するから不思議に思うのであって、よく考えれば連続する日常の一コマにすぎないわけです。
木村資生先生も厳格な分子遺伝学者として、オカルト的な話に巻き込まれてあの世で迷惑していたことでしょう。(って、”あの世”も無いけど)


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