▲「耳壷」へ戻る

第三夜

私が悩み多き若かりし頃(いや、今の方が悩み多いかな?笑)、哲学や思想に凝っていた時期がありました。特に実存主義に傾倒していた私は、カミユやサルトル等を読み漁ってました。当時は友人達もまだ青臭くて、よく哲学論議をしていたものです。
そんな友人の一人から薦められた小説がサルトルの「嘔吐」というもの。存在の問題に鋭く接近していると聞き、一度読んでみたいとは思っていたんですが、サルトル物は論文等は多く刊行されていても、小説はなかなか手に入らなく、結局当時は嘔吐を読むことはかないませんでした。

さて年月は経ち、忙しい毎日に哲学もサルトルもすっかり縁遠くなっていたある日。
神保町の書店でPC関連の本を物色していた私は、帰ろうとして一階へ降りて出口を目指していました。何も考えず、脇目もふらずにまっすぐに前を見て出口へ一直線に早足で向かっていた・・・その時です。
がくん!っと唐突に足が止まったのです。そして意味もなく振り返って平積みになっていた書籍の一つに目を落としました。そこまでの段階では、自分でも何が起こったのか分からないままに
そこには、あの「嘔吐」が積んでありました。
「あ!嘔吐だ。・・・でもなんで?」
私は確かに前方しか目に入ってなかったのです。もちろん、本を探してなどいなかった。ましてや、いまさら嘔吐なんて・・。
私の足を止めたのは、いったいなんなのでしょうか?




仮説

これは人間の身体の仕組みの不思議です。
まず、書籍をどうやって見つけたか。普通、人間は注目している対象しか意識にありません。ネットフェンス越しに女子テニス部の練習を眺めてる男子生徒の目には、フェンスなど意識されていません。それは目から入った情報を脳の中でいったん分解し、整理されてから初めて意識の上に広げられるからです。じゃあ、意識の上に広げられなかった情報は完全に切り捨てられてしまうのかと言えば、そうでもありません。それらは無意識下へ送られて整理されていくわけです。
おそらく、まっ直に前を向いていた私の視界の隅には、小説の表紙が入っていたのでしょう。それは意識されることはありません。しかし、情報として入った表紙の文字は、無意識下において過去に蓄積されてきた情報と照らし合わされ、過去の嘔吐にまつわる情報と合致し、脚に停止命令を送ったのではないでしょうか。
でも、意識の命令無しに脚が止まるなんてことがあるのでしょうか?
実は人間の行動の多くは無意識によって決定されています。それどころか、意識して行ったと思われる行動さえ、実は無意識が先行したりしていることさえあります。
ある実験では、意識して机の上のコップを手に取ろうとする行動も、実際には意識される直前にすでに手の筋肉は動きはじめている・・っとい結果が出ています。
被験者本人は自分で意識してはじめてコップに手をのばしたのだと主張しますが、それは言わば理由を”後付け”しているのだということです。
このような能力は、自然界で生きていくのに不可欠な要素です。いちいち意識してから行動していたのでは、毒ヘビに噛まれます。

っというわけで、私が嘔吐を発見した時の行動は説明されます。
数年前、ある新興宗教団体に入った人の話では、私と同じような経験をして(本はその宗教団体のものでした)、それを”天啓”と考えて入信してしまったのだそうです。あらあら。(^^;

#ちなみに「嘔吐」は面白かったです。

▲戻る